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日蓮正宗がそんなによい宗旨なら、なぜ社会の人から広く受け入れられないのか

 投稿者:亀太郎  投稿日:2012年 3月 4日(日)16時21分40秒
返信・引用
  質問の内容はいろいろな意味に解釈できます。具体的にいえば、 「そんなによい宗旨なら」

 一、もっと昔から広まっていたはずだ
 二、もっと大ぜいの人が信仰するはずだ
 三、もっと学識者や著名人に受け入れられるはずだ
 四、もっと短期間に広まるはずだ

などの意味を含んでいるように思われます。
 いま、これらの質問に対して、まとめて説明しましょう。
 釈尊は法華経に、
 「此の法華経、最も為れ難信難解なり」(法師品第十・開結三九〇)

 と説き、法華経は随自意といって衆生の機根にかかわりなく、仏が悟った法をそのまま説かれたもので、教義が深遠なために難信難解であり、さらに正法を信ずる時は必ず大難や障害が起こるために難信難解なのであると仰せられています。
 とくに末法は衆生の機根も邪悪な時代であり、出現される仏も弘通される教法もより鮮明に破邪顕正を旨とするものであるから、迫害や誹謗は身命におよぶものとなり、弘教は困難をきわめるであろうと、釈尊は予言されました。
 釈尊の予言どおり、末法の御本仏日蓮大聖人の生涯は、立正安国と衆生済度の大慈悲に貫かれ、同時にまた邪悪な大難障魔との闘いの連続でもありました。
 日蓮正宗は日蓮大聖人の教えのままに、法の正邪を峻別する折伏の宗旨であり、個々の人間に活力を与え、現実生活の向上を説く宗教であるため、封建主義の時代には、民衆を抑圧して体制維持を計る為政者から弾圧されたのです。
 従って日蓮正宗の本格的な布教は、信教の自由・布教の自由が認められたのちといっても過言ではありません。
 折伏弘教が進むにつれて、その反動としての中傷や妨害もさまざまに起こりました。なかには、せっかく日蓮正宗の話を聞いても、「日蓮正宗は新興宗教だ」「葬式の香典を全部持ち去ってしまう」「病人と貧乏人の集まりだ」などの悪質なデマに惑わされたり、世間の目を気にして入信できなかった人も多くいたのです。
 現在でも、正邪をはっきりさせることに抵抗を感じる人や、信仰するよりは遊んでいた方が楽しいという人、朝夕の勤行と聞いて尻ごみする人など、入信できない人も大ぜいいるようです。
 そのようななかで、人生を真摯に考え、先祖からの宗教を改めて日蓮正宗に帰依することは実に勇気のいることであり、至難の業なのです。それにも拘らず、日蓮正宗の信徒数は、昭和二十六年には約三万世帯であったものが昭和三十五年には百七十万世帯となり、昭和四十五年には七百五十五万世帯と飛躍的に増大し、現在では一千万を超える信徒が日本国内のみならず全世界に広く活躍しています。
 さまざまな障害のなかで、このように発展したのは、正宗僧俗の折伏弘教の努力によることはいうまでもありませんが、何よりも日蓮正宗の仏法が正統であり、御本尊に偉大な功徳が厳然とましますからにほかなりません。
 世間では学識者、著名人といわれる人がおりますが、このなかには日蓮正宗の信仰をしている人もいれば、この宗教にまったく無知な人、世評や保身を気にして信仰できない人などさまざまです。ですから学識者や著名人が信仰するしないによって宗教の必要性や正邪を判断することはあまり意味のないことです。
 また“なぜ短期間に広まらないのか”という点ですが、日蓮大聖人の仏法に大利益があるからといって、一年や二年で願いごとがすべて叶うというわけにはいきません。
 なぜなら私たちには過去世からの種々の宿業があり、花も時がこなければ咲かないように、信仰の功徳が開花する時期は人によって異なるのです。また賢明な親は子供の欲しがる物を言いなりに買い与えないと同じように、目先の願望を叶えるだけが仏様の慈悲ではありません。いかなる時でも、正法を堅持し生命力を発揮して人生を悠々と歩む人間に転換されていくところに正法の真実の利益があるのです。したがって信仰の利益は、他人の目から見て容易に判断できるものではありません、
 しかし信仰によって御本尊の功徳を実感し、体験した人々の歓びと確信が、現在多くの人々を正法に導き、真実の幸福への人生を歩ませているのです。難信難解の正法を語り、その功徳のすばらしさを伝えていくためには、着実な努力と時間の積み重ねが必要なことはいうまでもありません。
 あなたが、もし本当に“日蓮正宗は社会に広く受け入れられていない”と思い込んでいるならば、それは無認識による誤解であり、さもなければ偏見というべきです。
 また“もっと大ぜいの人が信仰しなければ、自分は信仰する気にならない”という意図で冒頭の質問をされるならば、それはあたかも“もう少し大ぜいの人が法律を守らなければ、自分も法律を守る気がしない”ということと同じで、良識ある大人のいうことではありません。
 他人がどうあろうと、周囲にどう評価されようと、正しい道を知ったならば、確信をもって自ら邁進する人こそ、真に勇気ある人であり、聡明な人というべきでしょう。
 
 

もっとも正しい宗教とはなにか

 投稿者:亀太郎  投稿日:2012年 3月 4日(日)16時17分11秒
返信・引用
  もっとも正しい宗教としての条件は、

 第一に教主が宇宙の真理と人間の生命の実相を完璧に悟った方であること
 第二に教義が因果の道理に基づいたもので、それが経典として誤りなく表記されていること
 第三に本尊が全人類にとって尊崇に値するものであり、現実に即したものであること
 第四に信仰修行の規範が普遍的で社会的人道的通念に反しないものであること
 第五に信仰によって得られる利益が教説によって適っており、表面的一時的なものでなく本質的永続的な利益であること

などを挙げることができます。
 第一の教主の悟りについていえば、数多い宗教のなかで、宇宙の実相と人間生命を深く観達し、適確に説き尽くした教えは仏教に勝るものはありません。キリスト教の教主イエスやイスラム教のマホメットなどは神の子とか神の使徒として絶対神を説きましたが、彼らは神の啓示を受けたというだけで、過去に何を修行し、いかなる道理によって何を悟ったのかはまったく不明です。その教義内容も生命の本質に立脚したものでなく、戒律によって表面的な言動を規制し、奇跡と空想を説いているにすぎません。
 その点仏教は教主釈尊の因行と果徳を明らかに教示し、五十年間の説法を通して宇宙の真理と人間生命の実相をあらゆる点から完璧に説き尽くしています。釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初というこの世の最初の時代に、我身がそのまま大法界の真理の当体なりと悟られた自受用報身という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法に日蓮大聖人として出現されたのです。
 第二の教義の正当性と経典については、釈尊の説いた仏典は数多く現存しその内容もすべて道理に適ったものですが、その究極が法華経です。この法華経の予言通りに末法の御本仏として日蓮大聖人が出現され、一切衆生を救うために命におよぶ迫害のなかで南無妙法蓮華経の七文字を説きました。この南無妙法蓮華経は諸仏成道の根本原因の仏法であり、教義の面からも、功徳の面からも釈尊の法華経より、はるかに勝れたものです。大聖人はこの大仏法を広く人々に説き示すために膨大な量の御書を書き遺されています。
 第三の本尊については、本尊とは、“根本として尊崇すべきもの”の意味で、少なくとも人間として誰もが尊敬するに値いするものでなければなりません。世の宗教のなかには、キツネ(稲荷)、ベビ(竜神)、ワニ(金毘羅)などの畜生を拝むものや、先祖供養になを借りて亡者の霊を本尊とするもの、仏としての悟りを得ていない菩薩や天上の神などを本尊とするものなどがありますが、これらは最上至尊の本尊ではないのです。またいかに立派な神や仏を立てても、それが架空のものであったり、空想上のものであっては、貴重な人生を托する本尊としてはきわめて頼りなく、危険なことというべきです。久遠元初の仏である日蓮大聖人が、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・六八五)
と仰せられて、御身に備わる一切の悟りと大功徳の力をそのまま図顕遊ばされた本門戒壇の大御本尊こそもっとも尊く勝れた御本尊なのです。
 第四の信仰修行についていえば、宗教のなかには修行として、山にこもったり、断食をするもの、神札や守り札を貼っておけば修行は一切必要ないというものなどさまざまです。また戒律宗教などの教えを現実生活の中で堅持しようとすると、さまざまな支障をきたしたり、非常識的な行為になることもあります。日蓮正宗の信仰は教条的に現実生活上の行動を規制するものではなく、日常生活の中で日々、御本尊を信じ礼拝し唱題することが基本であり、誰でも支障なく信行に励むことができるのです。
 第五の信仰による利益については、大聖人が、

 「道理証文よりも現証にはすぎず。」(三三藏祈雨事・新編八七四)

と仰せられるように、現証は宗教を判定するうえでもっとも大切なことです。
 さらに大聖人は、
 「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべしと見えたり」(諌暁八幡抄・新編一五四三)

とも、
 「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事・新編一二九三)
とも仰せられています。すなわち、日蓮正宗の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、諸天善神に守護され、未来永劫にくずれることのない仏の境界を築くことができるのです。
 現在、日本国内のみならず全世界において、正宗信徒が飛躍的に増加し、歓喜にみちて仏道修行に邁進しています。
 日蓮正宗の仏法が世界でもっとも正しい宗教であることを、全世界の人々に理解される日もそう遠いことではないでしょう。
 

宗教は教団の金もうけにすぎないのではないか

 投稿者:亀太郎  投稿日:2012年 2月27日(月)20時19分42秒
返信・引用
  ご指摘のとおり昨今の宗教界の乱脈ぶりは目を覆うばかりです。
ほとんどの教団は、民衆救済と社会平和の実現という宗教本来の使命を忘れ、本尊や書籍、守り札、祈祷などを売りものにして、金儲けに専念している現状です。
 ひどい教団になると、教義がらみで信者にお金を出すよう強制します。
たとえば目を患っている人に対して、「目の玉は丸いでしょう。目の因縁を切るために、丸いもの(お金)を供えなさい」、また足の悪い人には
「足は“おあし”(お金)に通じるから、お金を上げればよくなります」などとまったく人をばかにした“ごろ合せ”や“こじつけ”で
無知な人を騙しています。もっと悪質なものになると、
「欲心があなたを不幸にしているのだから、欲心を捨てなさい。
そのためにはあなたの財産を神さまに捧げることです」
などと言葉巧みに、全財産を教団にまき上げられた例もあります。
 こんな宗教は明らかに金儲けを目的としたものですから、
近づかないほうが無難です。
 では、宗教団体が資金を持つことは悪いことなのかというと、
それも誤った考えです。教義を研鑽し、修行し、布教するためには、
それを賄う資金がなければなりません。
 仏典には、菩薩の修行として貧者に物を与える布施行が説かれておりますし、衆生が仏や法に対して、報恩の念をもって金品を供養することを、
積功累徳の行いであると賞賛しています。
供養とは自分にとって大切な宝を仏さまに捧げることであり、これには蔵の財・身の財・心の財の三種がありますが、大聖人は、

 「「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書・新編一一七三)

と仰せられ、信心という心の財を根本にすることを教えています。
 「日蓮正宗の信心はまったくお金がかからないのか」という声を
聞きますが、常識的に考えても、信仰するためには珠数や経本、仏具、
書籍などの費用は必要です。
また御本尊に対する自発的な供養や先祖回向の塔婆供養なども、
信仰者として当然なされるべきでしょう。

 しかし、日蓮正宗では本山はじめ各地の末寺でも、賽銭箱などは
いっさいありませんし、他宗徒からの供養は仏の本意に叶わないとして、
まったく受け取らないのです。また葬儀、法事などにおいても、
“お経料”とか“戒名料”もありませんし、他宗のように供養の
額を定めて請求することなどもありません。
 日蓮正宗はひたすら正法を純粋に守り、弘教し、
真の幸福と世界平和の確立を目指して実践している唯一の宗団なのです。
 

無神論ではなぜいけないのか

 投稿者:亀太郎  投稿日:2012年 2月27日(月)20時12分19秒
返信・引用
  無神論とは、信仰の対象となる神や仏などの絶対的存在の事実と可能性を否定する考えで、
「無信論」と書く場合もあります。無信論といっても、信用とか信頼などの日常生活上の心理作用
まで否定するのではなく、あくまでも宗教的な絶対者、あるいは絶対力の存在を認めないということです。
 また無神論者の中には、いちおう他人の信仰を認めて、「神や仏は、いると思う人にとって存在するが、
いないと思う者に存在しないものだ」と唯心的な主張をする人もいます。
 たしかに、ほとんどの宗教で解く神や仏は現実にこの世に出現したこともなく、因果の道理に外れた空想の産物ですから、
無神論を唱えることも無理なからぬことかもしれません。
 これに関して面白い話があります。あるキリスト教の教会で、全知全能の神について語り終えた牧師に向かって、
ひとりの少年が尋ねました。
「何でも可能な全知全能の神様は、自分で持ち上げられない石を造れますか」と。
牧師は返答に窮して口を閉じてしまったということです。

 この話は、現実を離れ空想によって生み出された神が、いかに矛盾にみちたものであるかを、短い中に鋭く指摘しています。
 しかし、だからといって無神論が正しいということではありません。無神論者と称する人は、
神や仏がまったく存在しないことを立証できるのでしょうか。少なくとも仏教に耳を傾け、
仏典を繙いたことがあるでしょうか。
 もしあなたが自らの狭小な体験や憶測をもって、無神論を主張するならば、それはあまりにも単純な発想であり、
甚だしい無認識の評価であるといわざるをえません。
 いま参考までに仏教の概要を説明しますと、仏教は今から三千年ほど前、インドに出現した釈尊によって説かれました。
釈尊は当時流行していた超現実的な絶対神を立てる宗教を邪義として排斥し、自らの修行と思索によって悟り究めた
法を五十年間にわたって諄々と説き、その最後に究極の実教たる法華経を宣説されました。
その教えは、因果の理法を基底として、法界の真理と人間生命の実相を開示するものであり、衆生が生老病死の
四苦を根本的に解決して真実の幸福境界に至ることを目的としたものでした。そして法華経に予証されたとおりに
末法の御本仏が日本に日蓮大聖人として出現されたのです。
 日蓮大聖人は末法万年の衆生の苦しみをのぞき、幸せを与えるために、心血を注いで多くの教えを遺すとともに、
一切衆生成仏の法体として大御本尊を図顕されました。
 この大聖人の仏法は、

経文に照らし合わせ(文証)
因果律や現実の道理に照らし(理証)
実際に信仰した結果を見ても(現証)

一点の曇りもないもっとも正しい教えであることが立証できるのです。
 もしあなたが、仏の悟りや御本尊の功徳力を信じられないというならば、謙虚に仏法の教えを乞い、
自ら仏道を求めるべきでありましょう。
 日蓮大聖人の仏法が七百年間、厳然と存在し、全世界にわたる多くの人々に生きる力と、喜びを与えていること
はまぎれもない事実です。
 この事実に目をつぶって、「この世に神や仏などあるはずがない、信じたくない」と無神論に固執するならば、
それは、精神異常者のような精神構造というべきです。
 大聖人は、無心・無行の者に対して、

 「謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざる
も即ち謗なり」(戒体即身成仏義・新編十)

と仰せられ、法華経を信仰しない者は、仏をそしり正法に背く大罪であると、固く戒められているのです。
 

宗教によらなくても、自分で幸福だと思えばよいのではないか

 投稿者:亀太郎  投稿日:2012年 2月26日(日)20時57分34秒
返信・引用
  一般に、どのような境遇にあっても、人間の幸不幸は所詮その人の心の持ち方・考え方によって決定されるのだから、宗教に頼るよりも、心に“自分は幸せだ”と思うことが大切である、という考え方があります。

 このような考え方は、一見もっとものようですが、現実的には人間本来の「心」を知らない理想論であり、これを実行するとなると危険がともないます。なぜかといいますと、私たちの心は時にふれ、折にふれて、ある時は喜び、ある時は悲しみ、怒り、そして安らぐというようにさまざまに変化します。その変化は心だけでなく、顔つきや態度に現れます。なぜ私たちの心がさまざまに変化するのかといいますと、周囲の環境世界(これを縁といいます)に触れることによって、私たちの生命(身心両面にわたる人間全体の働き)に、本来潜在的に具えている十界三千といわれるさまざまな働きの一部分が瞬間瞬間に反応するからなのです。
 私たちの内なる心と外界を結ぶ窓口が眼耳鼻舌身の五根です。外界の色彩や物質は眼根を通して心に伝えられます。音は耳根により、香りは鼻、味は舌、冷暖・柔剛などは身体の皮膚感覚によって心に伝達されます。これらの情報を受けた心(意根)は、これを識別して好悪・喜怒などの反応を生ずるわけです。
 人間は自分の心に適ったり満足した時に幸福を感じますし、反対にきらいなことが続いたり、不快なことが直接我が身にふりかかった時に不幸を感じます。これは人間として本能的なものであり、きわめて当然のことです。

 それを「どのような場合でも幸福を感じ続けよ」と心に強制することは、あたかも身に危険を感じても安全だと思えということと同じであり、黒いものを見て白いと思えということと同じです。このようなことは現実に、正常な人ができるわけがありません。「心」は目に見えませんが、肉体と同様に疲労や倦怠もあれば許容の限界もあるのです。もし身体を鍛えていない病人に、いきなり何十キロもある荷物を背負わせたとしたらどうでしょう。
おそらく立つことはおろか、大けがをしてしますでしょう。同じように心の鍛錬・修行を積んでいない人に対して、「どのような境遇にあっても、いかなる縁に接しても、自分は幸福だと思わなければいけない」と強要することは、極度の心理的重圧を加えることになり、ついには二重人格や精神分裂症などを引き起こすことにもなりかねません。
 このような、人間生命の本質を知らない誤った幸福感は、一個人の主義・主張にとどまらず宗教の教義の中にも見られます。その一例を挙げますと、“心によって病気が起きるのだから、治ったと思えば病気が治る”と説く「生長の家」や、“汝の敵を愛せよ”などと矛盾した美辞麗句を並べる「キリスト教」があります。
 これらは、宗教本来の利益によって現実に救済する力もなく、衆生を加護する力もなく、単に衆生に対して”思いこみ”を押しつけているだけの宗教といわざるをえません。
 これに対して真実の宗教とは、宇宙法界の現証と真理のすべてを達観した本仏によって説き示された教えであり、広大な功徳力を具えた本尊を信じ、修行を積むことによって、清浄にして不動の心(法身)を発揮し、深い智恵と慈愛にみちた人間性(般若)を開発し、人生を自由自在に遊楽(解脱)させる働きがあるのです。このことを日蓮大聖人は、
 「法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じ云々」(当体義抄・新編六九四)
と仰せられています。
 真実の幸福とは、観念的な“思いこみ”や“ひとりよがり”ではなく、正しい本尊によって自己の内面から健全な生命を涌現させ、修行によって深い智恵と苦難を克服する心を養い、仏力・法力によって守護される安心立命の境界をいうのです。
 何物にもくずされない絶対的幸福、それは正しい宗教によってはじめて得られることをよく知るべきです。
 

真実の幸福とは

 投稿者:亀太郎  投稿日:2012年 2月26日(日)20時49分19秒
返信・引用 編集済
   人は、苦しいことや悲しいこと、また困難なことに出会ったとき、それを解決し克服する方法について思いをめぐらします。
しかし、その解決方法を見いだすことは容易なことではありません。
 仏法では、生・老・病・死など人間だれもが直面する人生の本質的な苦悩を根本的に解決する道を説き示しています。
そして、その本質的苦悩を解決せずして、真の幸福はありえないと説いています。
 真の幸福とは、観念的なものではなく、因果の道理をもととした正しい信仰によって、
自己の内面にある健全な生命を確立し、深い智慧と強い心を養うことによってはじめて
もたらされるものです。
どのようなことにも、けっして揺らぐことのない安穏な境界、それが真実の幸福なのです。

 

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 投稿者:teacup.運営  投稿日:2012年 2月26日(日)17時45分37秒
返信・引用
  ご利用ありがとうございます。

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